雑記:野坂の物理の思い出と接し方
本文では自分が物理とどう接したかどう勉強したか、という雑談・エッセイを書きます。
数学者同僚や物理屋さんから見て、「野坂がどれほど(しか)物理を理解してないか」との指標になればと思います。
大学物理との出会いは若気の至り・偏見が原因だと思います。即ち、学部生が持ちそうな「数学と物理の両方を理解すれば頭が良さそうだし、将来あかるい研究者になれそう」な思い込みを私もしてました。
「素粒子・超ヒモを扱えば、カッコいい」みたいな傲慢さです。
だが「それは頭が相当よくないと出来ない」「自分は高嶺の花に憧れ愚かだった」と今では思います。そうこうあって、
矜持をもって学部1,2回生時は物理の授業を色々と登録して、一知半解なれど単位は沢山取れました。
量子力学は[6][7][11]で、解析力学は[5][8]などで勉強しました。
が何故か(今でも謎の決断です)私は3回生の新ふりで、物理学科を選んで物理に配属されました。
ある宇宙線の散乱のpolizationの計測や、金とかの合成物質の反射率からスペクトルなどを計測する実験もしたり、
[1]をゼミで読んだりとしました(が今では全く役立っていません)。
私の3回生は色々と思い出ある貴重な一年でしたが、「私に物理は向いてない」と結論付けて4回で数学配属に変更しました。
その際に、数理物理のS先輩には多く相談にのって頂いて、大変お世話になり今でも尊敬・感謝しています。
4回生次のゼミ配属で、古田幹雄先生の「指数定理」[9]の選択肢があり私は衝動的に選んでしまいました。それでT君と3人ゼミになりました。
その本は量子力学か量子場の色々な考えが散りばめられ、物理と数学のinteractionを垣間見れました。
また哲学っぽい文体も私は好きですね。
ゼミとは別に、スペクトル系列の計算とか、表現論を勉強するとか、Atiyah-MacDonald[10]の演習問題(8割はやった)を解くなど今思えば脈絡のない事もしてましたが・・。
そして、量子とトポロジーの関連する分野を知り、「ここだと自分も伸びそうだ」と勝手に判断して、
数理研の入試を受けました。無事、合格させてもらいました。一方で、ゼミは順調で[9]も250頁くらい読めて数学が解ってきた気がします。4年時のゼミ内容は今でも影響を受け、
その後、ゲージ理論関係の和書([4][14][15]とか)をチラホラ読めたのも、4回生次の勉強のおかげです。。
院になると、数学系の院生になったので数学一本の気持ちでゼミなどしてました。
ただ、修士1,2回の時は、[2][3]の頭ぐらいを原子核の院生とセミナーを密かにしてました。
でも、生半可で今もよく理解できていませんが、場の量子論での経路積分や繰込み理論でしたい事は何となく気持ちは読めました。
WittenのChern-Simons作用や共形場理論への数学的示唆や、天才 Kontsevichの数学を幾つか知り、感動もあり、物理的アイディアの汎用性や強力さを真に受けました。
が、この時にはさすがに自分はそう頭が良くない事も骨の髄まで自覚したので、自分の方向性を考え直したりしました。
しかしM2になると研究せなアカン!となり、自分で考えぬき紆余曲折もあり色々と悪戦苦闘しました。その時、quandleという代数系が自分に合いそうな事が解り、
自分の研究テーマに選んで(物理とは関係ない)低次元トポロジーよりの研究ばかりに埋没していきました。
博士課程では、心血を注ぎ数学研究をしてた(つもりな)ので自分が示せそうな事としてquandle理論に打ち込みました。
特に物理とは縁が切れました。一喜一憂も多かった時期とも思い返します。
今思えば、(数理)物理などは難しく頭の良い人が多い分野なので、自分みたいな者が物理を続けてたら成果はあげられなかったかもと思います。塞翁が馬と言えど私の研究者人生は運の連続な気もします。
とはいえ、矢張り同じテーマで研究は半生続けられないので、研究者人生には勉強は欠かせません。なので今でも、たまにたまに物理関連の本や論文は目を通し、参考にしています。
Chern-Simons作用やファインマン図っぽいのは私も使うし、今でも理解し発展させたいテーマです。
話が少しずれるかもれませんが、3,4回生の時は、分析哲学・科学史に興味があり、
いくつか文献を読みました。科学史の紹介本をはじめ、トマス・クーンとか、内井惣七氏や小林道夫氏の本とか等を思い出します。
[12]も全部読んで感銘を受けた覚えがありますし、「カッシーラーは余り有名でないが、科学哲学的に先鋭だなぁ」と思ったりもしました。
相対論の影響を受けたマッハの『感覚の分析[17]』も2回生時で完読し検討しましたが、
現象学の``志向性"が欠けた極端な要素一元主義・実証主義と判断し、私は後に現象学へと興味が流れたのも思い出します。
主客や「観念論VS唯物論」の論争や形而上学レッテルは今や議論の必要なく、故に「若手は勉強しなくてよい」と言いたくなる内容に私は思います。
ブルバギの数学史[16]も読了。
また``新科学哲学"の「パラダイム(シフト)」「観察の理論負荷性」「通約不可能性」とかは面白い発想だと高校時には思いました。
しかし、学部時に科学史を勉強すると穴もあり論点満載の内容だし、
(相対論や量子力学以前に)解析力学やボルツマン統計力学ぐらいで哲学的に成熟していない感じがするし、科学の後追いで(数学者にとって論文・アイディアの)生産性が乏しく求心性が足りない事に気付きました([13]も参照。私の多元主義的な考えに影響を与えたものの)。
そもそも『変動的な「史学の歴史」の論調には専門外は表面的にだけ関わればいい』との考えが芽生えたのも当時でした。
その為か、修士以降は科学史や哲学を勉強せず読まなくなってしまいました。のちに私は理系研究に傾倒し、一般の方の思考・文系的思考を余りしなくてもよく、論文執筆や発表が主眼の世界に嵌ったようです。
目下、トポロジー同僚からは「物理や哲学を多少勉強した人」と私は余り見られないようです。とはいえ30半ばになると(立場や研究が安定してきた事もあって)、哲学的視点や共通会話性といった大局的な視点を持ち、幅を広げる生き方は大切だなぁと改めて感じます。
3,4回生時につるんでた文学部のAさんがよく「歴史や古典・近代は非常に大事」と言われてたのを思い出しますが、今もそう実感し、理系人間ながらもチョコマカ復習・勉強しようかとは思っています。
暇があればまたまた勉強し、自分の考えを整理し持ちたいものです。
さて、長々と書いてしまいました。私と物理の関わりはこんな所です。
「これ勉強して意味あるの?」との世俗的な問がありますが、私にとってそもそも勉強した8割以上は無駄と総括してます。
物理に関しては無駄のギリギリのラインで、物理を今もほとんど理解していません。
ただ雰囲気や考え方は解る時もあります。棒ほど願って針ほど叶うじゃありませんが、他分野を勉強する際に「意味がある」とはこんなもんでしょう。
物理を勉強した時間を「完全な」無駄には思いません。特に、物理学生との会話や議論経験はためになり、他分野の方と話す用語を合わせる力・態度は学んだ気がします。
また物理理論屋の速い理解の学習法や、大まかな詰めで進展させる柔軟な推進力は参考になります。
なお私の線形代数の授業ではよく量子力学の話をするよう等し、こう思うと、物理の余計な知識が役立ったのかもしれません。
私ぐらいの者では、物理を数学に直接やくだてれず、物理と数学の相互干渉的な発展にも寄与できないでしょうが、まぁー色々と今でも物理で学んだ事は役立っています。
[1] 朝永 振一郎 (著)量子力学〈1〉
[2] ポルチンスキー (著);ストリング理論
[3] Peskin-Shroeder(著) An introduction to quantum field theory
[4] 小林 昭七 (著)接続の微分幾何とゲージ理論
[5] V.I.アーノルド, (著)古典力学の数学的方法
[6] 猪木 慶治 、 川合 光 (著)量子力学1,2
[7] J.Jサクライ (著) 現代の量子力学
[8] 山本 義隆 、 中村 孔一 (著)解析力学1,2 (朝倉物理学大系)
[9] 古田幹雄 (著)指数定理
[10] Atiyah-MacDonald (著)可換代数入門
[11] ディラック (著)、量子力学 原書第4版 改訂版
[12] 山本義隆 (著)、磁力と重力の発見1,2,3
[13] 須藤靖 (著), 伊勢田哲治 (著) 、科学を語るとはどういうことか
[14] 中原 幹夫(著)、 佐久間 一浩(補筆) 理論物理学のための幾何学とトポロジーI, II [第2版]
[15] 前田吉昭・梶浦宏成(高村亮 記),変形量子化入門,東京大学数理科学セミナリーノート,
[16] ブルバギ、数学史
[17] エルンスト・マッハ、感覚の分析